人生ってのは分業で、手間の貸し借りだと思う。
自分一人でできることというのは勿論あるだろうが、自分がやりたいことで一人でできないこともたくさんある。 コンビニでうどん一つ買うだって、誰かが小麦を育てて、粉に挽いて、運んで、こねて、俺ん家の近くまで運んで、俺に売り出してくれなきゃならない。少なくとも、この世界の自分以外の人間が関与した物には一切触れないようであれば、いま、自室の机の目の前にコンビニのたぬきうどんがあろうはずはない。
このうどんはコンビニでお金を払って買ったわけであるが、金銭の授受があったからといってそれを作る手間や労力がこの世から消え去るわけはない。結局は誰かの手間がかかった結果としてたぬきうどんが出来上がり、俺がそれを食べる。お金で売り買いするからって、何もお金の紙ぺらが人様より偉いわけはない。人間様である自分が紙ぺらを頭の上に推し戴いて生きてくれよとて生まれたとは思いたくない。ありがたく思う相手は手間を貸してくれた人様であった方が気分がいい。だから手間っ貸し・手間っ借りの手段として仮にお金の紙ぺらがあるのだと考えることにしている。 *1
理屈の上では結局は巡り巡って世間の皆全員で手間の貸し借りをしてるのかもしれないが、気持ちの上ではもう少し狭い範囲でありがたく思うことが多い。それこそ俺に手間をかけてくれた小麦農家・うどんをこねる人・ドライバー・近所のコンビニの店員さんとかだ。適当に地図を開いて「日野町三土」という場所を見つけたから、この場所を物のたとえの引き合いに出す。俺は三土にお住まいの方にも巡り巡って世話になってるのかもしれないが、普段の暮らしの上でそんなことを考えたことはない。三土に住んでる人からしたって、栃木のどこそこ町に住むゆーちきというあだ名のやつのことを常日頃ありがてえとは思ってないだろう。三土近辺で俺が誰かに何か手間を貸した覚えはないし、三土周辺で人に挨拶をして頭を下げた覚えもない。逆に三土周辺の人から挨拶をされた覚えもない。行ったこともない場所だから当然だ。俺が普段関わりあると感じる相手は、会ったことのない三土の人を含まないぐらいには狭い範囲だ。
仮に俺にうどんを売ってくれたコンビニの店番が外国人だったとする。 店番さんは俺にうどんを売ってくれて、代わりに俺はいくらかお金を渡す。 店番は俺に礼を言うだろう。俺も礼を言ってうどんをもらう。こんな具合だ。
店番は俺に手間を貸した。農家が作った手間、うどんをこねた手間、トラックで運んだ手間が全部ひと繋ぎに繋がって、俺がうどんを食べられるようにしてくれた手間だ。俺は借りた手間を直接は返せなかったが、代わりにお札で手間を返した。 店番は俺に挨拶をした。仕事でしたかもしれないが挨拶は挨拶だ。俺は紙ぺらが俺やあんたよりも偉いとは思っていないから、お金を払わずにお互いに近所を手伝う仕事もお金を出して何かを手伝う仕事もひとが人にしたことは同じ仕事だと思ってる。語源的にも確かそんな感じじゃなかったっけか。することだからしごと。簡単。だから結局どちらにせよ、自分は世話になって、頭を下げあうか挨拶し合うかしたことに変わりはない。たとえ余計なことはお互い言わないとしても、近い町内に住んで絡みのある人だ。
三土がどんなところかは知らないが、たぶん人がいくらか住んでいて、日本人も住んでるだろう。 その三土の日本人の中から誰か一人選ぶとする。じゃあ選んだ三土の人と、近所のコンビニの店番さん、俺の暮らしの中で世話になってるのはどっちの方だ?口もきいたことのない三土の人と、しょっちゅう物を買わせてもらってる店員さん、どっちと絡みがあるのか?俺は店員さんの方だと思う。何も三土の人が悪いわけじゃない。三土の人にとったって俺にゆかりを感じる筋合いはないだろう。悪いんじゃなくて、単にお互い絡みがないだけだ。世界は広いんだから仕方がない。
ここら辺を考えると、自分としてはどうも、近所で何かをしてる外国人よりも三土の日本人の方をありがたく思えという教えには従えない。 もちろん人間同士知らないからといって無碍にすることはないから、三土の人と喧嘩する必要は全くないし、広い道徳で遠く離れた三土の人のことも大切に思うのが文明心というものだと思う。でも、人のご説で命題が三土の人より近所の人を無碍にせよという内容であれば、少なくともそれは頭の中だけで考えて現実から離れてしまってるんじゃないかと感じる。少なくとも、俺の住む町の中で消費税だの住民税だの、勤め先の会社を通じて事業税だの払っているのは、この街の外国人の方であって三土の日本人じゃないし、何より俺に物をよこしたり俺と街中ですれ違ったりするのは三土の人じゃない。 世話になった人には恩義を感じ、やれ金銭だのやれ仕組み化だの言っても本質は人と人との親切や義理人情であって、便利な仕組みを使えども仕組みの奴隷にはならず情緒の世界に生きてみせようと思うのが大事であって、ましてや常日頃世話になってる連中への礼儀を疎かにして本の中にあるどこか遠くの人の方を恋しく思うってのは何かおかしいんじゃないかって。
「三土の日本人には日本人同士俺と共通の歴史や文化があるが、近くの外国人にはそれがないだろう」なんて意見があるかもしれない。 でも、三土の人はこの町のあの路地の風景も知らないし、冬のあの時代行列も知らないし、屋台で売ってるあの料理も知らないし、この町にあるどの食堂の味も知らないよ。この前あった大雨の停電も知らないと思う。地域防災で繰り返し言われている、あの台風のときにこの町にどんな被害があったのかも知らないだろうし、あの山から見下ろした朝もやの町の風景も知らない。あの土手に座ったときの川の風心地も体験したことないと思う。 そう考えると、コンビニの店員さんとの方が俺と肌身で感じた共通の昔語り・経験は多いと思う。俺はそういうのを大事にしたい。 もちろん、そういう身の回りで感じた先人の教訓とか文化は低俗だからどうでもよくて、教科書に乗っていて勉強して学ぶような歴史と、勉強して学ぶような文化だけが大事だっていう人もいると思う。わからなくはないけれど、どうしても生活よりも書物の方が一方的に偉いという気持ちには自分はなれない。
最終的には「自分と関わりのある人に感謝する」は心が狭い話なんだと思う。自分が世話になってない人は無碍にしていいという理屈は通らない。ありとあらゆる人のことを思いやらなければならないんだと思う。ただ、最終的な話に行くずっと手前のところで、「知らない人に感謝して、普段行き合う人は尊重しない」はおかしいという気持ちがある。それが偏狭な保守精神だと言われたらまあ仕方ない、それだけにならないように理性による博愛の観点からの自己点検をするんだろう。
三土
地名しか見てないので本当に無作為に選んだ地名だ。別に何も三土に恨みがあったり馬鹿にしたりしているわけではない。Googleマップで調べて見たところよさそうな地区だった。
*1:何かのほんで、大昔の人も共同体の共通作業一般を「手間っ借り」、「結仕事」と呼んだらしいと読んだことがある。